適当に放任されたパブリックくらいが丁度いい

新建築 2010年2月号
西田司+中川エリカ/オンデザイン
 

21世紀に建築を始めた私たちは、建物を説明する際に、家族やコミュニティについて語
ることは、ほぼない。共有も(共同も)、言ってみたところで、どこか実感がわかない。
何をもって共有と呼ぶか、実はよく分からないからだ。
一方、日常生活でいつもひとりかと言えばそうでもない。隣にはあなたがいて、振り返れ
ば彼らもいる。私たちは、一緒にいる=共有ではないこと、つまり、物理的な共有だけが
共有ではないことや、共有の定義が絶対的ではなく相対的になったことを、いちばん知っ
ている世代と言える。前段としてない以上、共有という状況にたいして随分したたかであ
り、ラッキーなことがないと共有なんてしないのだ。

専有<共有というバランス
ヨコハマアパートメントは、若いアーティストに展示・作業・居住の場を提供する4戸の
集合住宅であり、昨年8月、横浜の西戸部町に竣工した。
施主は敷地付近に長年住んでいる方で、要望は「(予算的に)木造賃貸アパート、ただ
し、アーティストを居住者とし、展示・作業の場としても提供できること」だった。
敷地面積は150㎡弱であり、各居住者に居住・展示・作業の場所を専有で与えることも一
応は可能だが、どこか無理が生じ、豊かにはならないと予見された。アクセスがよくない
この場所では、より決定的な性格がないと誰も借りないのではないか。考えた末、「何か
を共有にしたら豊かになるか」という問いが浮上した。共有した場合、作業と展示場所は
格段に広くなるという面積のこと、自家発電システムはより多くの電気を得られるという
エネルギーと光熱費のこと、設備の初期費用のことなど、考え始めると、好意的なことは
わりにある。こういう物理的な共有を、別に共有する筋合もない人たちが徹底的にすると
いう事実により、領域的な開放とはちがう開放が起こるかもしれないと思った。そして、
専有を減らしてでも共有を最大限拡張するというスタディに移行した。それは、専有<共有
という体験したことがないバランスであり、新しいパブリックの出現を期待した。

では、実際に、何を共有にし、専有にするか。それは空間を設計する上で、あらかじめ想
定しなければならなかったが、そんなこと、居住者に任せて放っといた方がいいと考え
た。想定しすぎることは逆に不親切にあたるかもしれない。そもそも居住者が入ったら設
計者の役割は終わりだと思うからいけないのだ。後のフォローを前提に、最低限の機能と
して水回りと寝室のみをおのおのの専有、それ以外はエネルギーを含め、全部共有という
適当な放任を、あえてスタンスとした。
敷地は、谷地という特性上、地面に近いほど暗く、空に近いほど明るい。明らかにちがう
ふたつの空間性を断面的に活用してはどうかと考え、4本の壁柱に高く持ち上げられたス
ラブの上に小屋が載る、ピロティのような構成とした。
スラブの下は、暗くて快適であるように、天井高を約5m取り、大きな空気量を誇る。ここ
を展示と作業を行うための共有(広場)とした。
対してスラブの上は、小屋を田の字プランで4つに分け、おのおのは小さいが明るいの
で、天井高は抑えた。ここを水回りと寝室のみの専有(部屋)とした。別世界のスラブの
上と下を繋ぐのは、4本の壁柱をぐるっと取り巻く階段と踊場だ。踊場は各箇所高さを微
妙に変えており、広場を見下ろすステージのようでもあり、立体的なバッファーともなっ
ている。柱内部は専有倉庫とした。明確な専有は、スラブ上と柱内部のみである。

適当に放任することで生まれる発見的な共有空間
共有専有の比率は超アンバランスだが、適当に放任した分、超ラフで身軽だ。大部分が共
有とはいえ、居住者は使用可能な空間をより多く持っている。そのわりに、たとえば掃除
の手間も、草の水やりも、ゴミ捨ても、半減する。光熱費もネット代も共有した分安い。
広場は、自分の場所でもあるけれど、自分ではない人の場所でもあるので、何が起こるか
は不確定である。一応自分の場所なのに、ひとりではたぶん出くわさないであろう場面
に、立ち会うことも多い。そんな不確定さは、ある意味、家というより街のようであり、
とても発見的だ。
広場は敷地境界上にビニルカーテン一枚引かれただけの半外部であり、その物理的な境界
の希薄さが、広場の不確定さと、近所の不確定さの境界も希薄にしている。
ラフな空間に対し、居住者はこの場所をどう使うかをあれこれ想起する。自発的だからこ
そ、共有という事実をいい機会と捉え、次のアクションを起こす。境界の希薄さにより、
そのアクションはこの場所にとどまらず、近所にも波及していく。それはとてもコンパク
トで、草の根的で微力だが、最も確実で強く、新しいパブリックの姿である。

「適当に放任を続ける」という設計スタンス
竣工してまもなく、全室の居住者は決まった。居住者は皆、私たちと同世代だった。放任
というラフな設計のフォローとして、設計者自身も運営に加わることにした。それは、建
物をつくるだけでなく関わることも設計と呼ぶ場合、「適当な放任を続ける」という設計
スタンスである。

敷地の西戸部町は道が狭くて高低差があり、街全体が立体交差する路地のような場所だか
らこそ、「近所」という小さな単位による丁度いい距離のパブリックが生きている。住民
同士が話し合って自分たちの街の運営を決める「自治会」もある。廃れずに続いているの
は、住所という強制力以上に、住民自身の自主性がそれを支えているからだ。
それに倣い、広場でも月1の居住者会議を開いて、この建物の使い方を話し合い、そこに
設計者も参加している。近所の方からの持込み企画を受け付けており、申し出があれば皆
でそれを考える。顔がはっきり見えるコンパクトなパブリックだからこそ、実現可能な運
営方法だ。

竣工して半年、広場は、持ち込み企画による公民館としても、居住者の試行による実験場
としても実際に使われ始めている。
持ち込み企画の時には、客層はほぼ近所の人であり、「あの人がバイオリニストって知っ
てはいたんだけど、聴く機会なんてまずないから聴けてよかった」という感想が漏れる。
居住者の試行の時には、客層はほぼ外部の人であり、「Twitterで前回のシンポジウムの
実況を見ていて、一度来てみたいと思っていた」と声をかけられる。適当に放任されたパ
ブリックは、私たちにとって丁度いい。だからこそ自発的であり、それが失われない限
り、発見的かつ不確定であり続ける。居住者が入れ替われば、またまったく違う状況が生
まれるだろう。近所もtwitterも同じ土俵で受け入れる新しいパブリックで、実際に起こ
る状況を考察し続けた未来はたぶんとても明るい。